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サウスダコタは4月6日にマジュロ環礁へ帰還し

サウスダコタは4月6日にマジュロ環礁へ帰還し、翌週に空母部隊と共に出航した。4月21日にホーランディアを攻撃し、翌日には上陸部隊支援のためアイタペ湾、タナメラ湾、フンボルト湾を攻撃した。4月29日および30日には空母部隊を護衛し、その後トラック諸島に戻り砲撃を行う。翌日サウスダコタはポナペ島への砲撃部隊に加わりこれを攻撃した。マジュロ環礁へ帰還し5月4日から6月5日まで維持作業を行った後、第58任務部隊に加わりサイパン島およびティニアン島への上陸作戦を援護する。空母部隊は6月11日に敵施設への攻撃を始め、サウスダコタおよび6隻の戦艦は艦砲射撃のため6月13日に空母部隊から分離した。サウスダコタはサイパン島のタナパグ湾に対して攻撃を行い、主砲および副砲で6時間以上の砲撃を行った。
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6月15日の夜、8機から12機の敵戦闘機および爆撃機が偵察機部隊との戦闘をくぐり抜け任務群に対して攻撃を行った。サウスダコタは4機に砲撃を行い1機を撃墜した。残る11機は他の艦による砲撃により撃墜された。6月19日、サウスダコタは空母部隊と作戦活動を行う。日本艦隊の主力が西方が接近し、アメリカ軍の主力は敵を迎え撃ちサイパンの地上部隊を支援できる様配置された。

10:12、西から敵部隊の接近が報告された。10:49に彗星がサウスダコタの主甲板に250kg 爆弾を投下、爆発により24名が死亡、27名が負傷し、艦は配線が切断され大きく損傷したものの、深刻なダメージは生じなかった。サウスダコタはその日中戦闘を継続した。このマリアナ沖海戦の初日で日本軍は300機以上の航空機を失い、その様子は後に「マリアナの射的遊び The Marianas Turkey Shoot.」と語られた。航空戦は6月20日も継続し、戦闘の終了後日本艦隊はもはやマリアナ諸島においてアメリカ軍への脅威とはなり得なかった。任務群は6月27日にウルシー環礁に帰還し、サウスダコタは真珠湾を経由して西海岸へ向かい、7月10日にピュージェット・サウンドに到着した。

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2009年06月10日 06:49に投稿されたエントリーのページです。

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